先日、長野県伊那市出身の有人から、新田次郎の『聖職の碑』のことを聞いた。
その友人の出身校では、学校登山という催しがあり、生徒が学校行事として木曾駒ヶ岳(伊那の人は木曾駒ヶ岳とは言わず、西駒ヶ岳と言うそうだ。)に登るのだそうだ。
友人は、最近になってこの『聖職の碑』を読んで、なぜ学校登山という催しが行われるのかと、そのルート上にある「遭難記念碑」のルーツを知ったのだという。
そんなわけで、その友人から、『聖職の碑』を読めば何故「慰霊碑」ではなく「記念碑」なのかが分かるからと強く勧められて読んでみた。
新田次郎の小説の油断ならないところは、ルポルタージュや伝記のように見えながら、その実は小説であるという点だ。司馬遼太郎の小説を読んで歴史を知ったような気になるのと同じ危険が、そこには潜んでいる。
ただ、この小説に描かれている大量遭難事件を前向きな教訓としている姿は、登山という取り組み自体においても大いに学ぶべきところがあると思う。
最近では、高校の山岳部などは顧問のなり手がいなかったり、学校が万が一の場合を考えて腰が引けていたりなどで、存続の危機にさらされているケースが少なくないと聞く。
こんな時代だからこそ、この小説に描かれているような態度が必要なのではないかと思うけどね。残念だ。
さて、作中で唐沢圭吾の遺体発見のきっかけとなったのが駒ヶ岳マラソンという大会だということが書かれていたが、今はそういう大会はないんかね?
調べたけど見つからなかった。
あー、木曾駒いきたい。
もちろん、ロープウェイなんか使わず。
おおー!読んでいただけましたか!!ヽ(´ー`)ノ
返信削除長野県に生まれて本当によかったと思った一冊でしたъ(`ー゜)
>はるさん
返信削除つーか、中央アルプスやら南アルプスやら、日帰りで行けるのが羨ましい。