このブログで紹介している登山ルートの状況は、現在の当該ルートの状況を保証するものではありません。
山行に先立っては、必ずご自身での情報収集を怠らず、安全な計画を心がけてください。
2014年9月21日日曜日
山行記 : 2014年9月13日~ 剱岳リベンジ 総括
(この記事は「2日目 登頂!」の続きです。)
今回の剱岳登山は、登頂には成功したものの、考えさせられることの多い山行となった。
その第一が、登山における目的意識の在り方である。
薄々気づいてはいたが、今回一緒に登った2人は山そのものが好きなわけではなかった。
単なる達成意欲からメジャーな山に登頂することをモチベーションとしていただけだった。
このため、2人は登頂を果たすと、一刻も早く帰京したがった。
それに対して、僕は、山の中に身を置くことそのものが幸せなのである。
こんなに天気の良い剱岳に巡り会えるなんてそうそう無いことであるし、全ての景色を堪能しきって脳裏に刻み込み、時間が許す限りその景色の中に身を置きたいと思うのだ。
そのモチベーションの在り処の違いが、2日目の下山時に、僕に地獄を見せた。
2人の希望とはいえ、なぜこんなに急いでこの場を去らなければならないのか。
天気が悪かったり、場所がショボかったりするのではない。こんなにも素晴らしい景色の中にあって、脇目も振らずに帰宅を急ぐことに僕個人は何の価値も見いだせなかった。
登山に対する価値観のすり合わせは、パーティとして行動する際には非常に大切なことだと、改めて痛感した。
第二に、安全に対する配慮の欠如だ。
今回、連れの2人の希望を受け、かなり急いで下山をした。
室堂に着いたときには、僕だけでなく、連れの2人も体力の限界を迎えていた。
なにしろ、朝の5時にテントを出発し、ロクな休憩も取らずに16時まで行動し続けたのだから。
無事にその日のうちに帰京できたのは良かったのだが、安全登山の面から考えれば、これは大変危険な行為である。
そもそも、体力ギリギリまで急ぐというのは不測の事態を招きやすく、同時に、不測の事態を招いた際の対応に不備が生じやすくなる。
例えば、道を間違えた際に、安全登山のセオリーからすれば道を間違えた地点まで引き返すのが正しいとされる。
が、体力が無いと、その引き返す行為に過剰な負担を感じ、いい加減な目測で歩いてしまって状況を悪化させ、遭難に至るのである。
もちろん、危機管理意識の不足による判断ミスもあるだろうが、体力的な負担を強く感じることも、このような遭難を引き起こす大きな要素なのだ。
だからこそ、自立した登山者は、体力を使い果たすような歩き方をしてはいけない。
今回の僕は、連れの2人の希望に押され、その大原則を怠ってしまった。
このような山行の仕方をしていれば、遠からぬ将来、必ず遭難する。まさに『孤高の人』の結末のように。
これは今回の最も猛省すべき点である。
登山においては、
・そのリスクテイクには意味があるのか。
・リスクテイクに対する、最低限のリスクヘッジ策は用意されているか。
の2点を、必ず反復しなければならない。
それは、低山だろうが岩山だろうが、同じだ。
この点に関して、僕はもう一度反省と総括をすることなしに、次の山に向かうわけにはいかない。
第三に、自身の山の知識に対する慢心があったこと。
今回僕は、熊鈴も熊スプレーも持って行かなかった。
おそらく今回の登山道は人間がアリの行列のように連なっているだろうし、わざわざそんな場所に熊が現れると思わなかったからだ。
ましてや、2日目の剱岳核心部では、そもそも熊が来ることも無いだろうと思っていた。
熊の生態に関する本を10冊以上読んだし、ネットや雑誌でも情報収集に努めていたので、その判断には自信があった。
が、今回、登山道において熊のものと思われる真新しい糞を2箇所で目撃した。
1箇所は、雷鳥沢から剱御前小舎に至る雷鳥坂で。もう1箇所は、なんと、平蔵のコルでだ。
雷鳥坂はまだしも、平蔵のコルのような急峻な岩だらけの、ロクに餌も無いような場所で熊の糞を見かけるなんて思いもしなかった。
だが、これは僕が、身に付けた知識を十分に活かしきっていなかったことの証左である。
というのも、かつての北アルプスの猟師たちの話を思い起こせば、槍ヶ岳の西鎌尾根で熊を撃った話などはいくらでも出てくる。
西鎌尾根に現れるなら、平蔵のコルに現れても不思議は無い。
それがちゃんと頭の中で繋がらず、「こんな標高の高い岩ばかりの場所に熊がいるわけが無い」とタカをくくってしまっていた。
己の判断ミスを恥ずかしく思う。
ちなみに、平蔵のコルの糞については、僕の周りにいた登山者たちは「熊がこんなところに来るわけがない。きっとカモシカの糞だ」と口々に言っていた。
が、それこそ無知の至りか、目の前の現実を受け入れられない愚か者である。
カモシカの糞などコロコロのツブツブなのだから、熊の水っぽい巨大な糞と見間違うわけがない。熊の糞は食べ物によって様子が変わるのだが、こんな大きい雑食性の糞は、熊しかいない。
自身の油断と、人間の「バカの壁」を痛烈に指摘する糞であった。
なお、人間の糞にも見えないこともないのだが、もしこの糞が人間のものであるならば、内容物からして、随分無茶な食生活を送っている様子に同情の念を禁じえない。
第四に、これは僕の反省ではないのだが、鎖場でガチャ類を使うのは却って危険であるということ。
昨年、剱澤小屋で出会った年配の男性に、ロープ等による確保無しでカニの縦ばいに行くのは危険だと諭された。
その点については、もちろん僕も事前に検討した結果、一般登山道として整備されている箇所で慣れないガチャ類を扱うのは却って危険であるという判断に既に至っていたので、その意見を容れることはしなかった。
今年、カニの縦ばい・横ばいを含む岩場を実際に登り降りした結果として、十分に整備されている印象を持ったし、これだけ整備されているにも関わらず別途ガチャ類で安全確保をしなければならないような人は、剱岳に登るべきではないという思いを強くした。
つまり、前年の自身の判断は誤りではなかったことを確信するに至ったわけだ。
実際、ガチャ類をつけている人を見ると、岩登りの技能がおしなべて低い。
そんな岩登り技能の低い人がガチャ類の扱いに慣れているはずもなく、岩場の途中で鎖にカラビナを噛ませようとしてモタモタしている姿は、滑稽を通り越して危なっかしいことこの上ない。
ガチャの扱いは、無意識に素早く行うからこそ安全器具として役目を果たすわけで、カラビナを鎖に噛ませるのに集中してしまって他の事に気が回らなくなるようでは、意味が無いばかりか却って危険でしかない。カラビナに集中している間に、上から落石が来たらどうするのか、無意識に足を動かしてしまい落石を引き起こしてしまったらどうするのか、もしかしたらちょっと足を動かしただけで踏み外してしまって自分自身が落ちてしまうかもしれない。
つまり、ガチャ類の扱いに慣れているような人間にとっては、鎖で整備されたルートでガチャ類を使う必要は無いし、ガチャ類の扱いに慣れていない人間がガチャ類を使うことは危険でしかない。結果、一般登山道として整備されているルートにおいてガチャ類を使うべき人は存在しないのである。
また、これは本質的な議論からは外れるが、ガチャ類をつけてモタモタしている人は、渋滞のキッカケになっていることも多い。
未熟なら、トレーニングをして未熟でなくなってから臨むべきなのだ。
今回は思うところの多い山行になったため、総括がやたら長文になってしまった。
が、これは僕が次のステップに進むに当たって必要な総括である。
こうして文章に起こし、その文章を人目に触れさせるという緊張感の元に精査することで、初めて己の心に刻み込まれる。
今回の山行の反省は、そこまでしなければいけないほどの課題を孕んでいると、僕は思っている。
いわば、これは僕の懺悔だ。
今後も僕は他者を山に連れて行くだろうし、より困難な課題に取り組みもするだろう。
そのような時、パーティのメンバーや自身の安全を確保するために、これを心に深く刻むものである。
(了)
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