このブログで紹介している登山ルートの状況は、現在の当該ルートの状況を保証するものではありません。
山行に先立っては、必ずご自身での情報収集を怠らず、安全な計画を心がけてください。

2015年10月6日火曜日

山行記 : 2015年9月19日~22日 立山縦走 3日目 沈殿




(この記事は「2日目その2 立山三山縦走(負けられない戦い編)」の続きです。)


山の朝は早い。

が、この日は朝寝を決め込んでいた。

前日の負けられない戦いで精も根も尽き、もはや大日岳どころか、弥陀ヶ原すら足を運ぼうという気にならない。
連れには悪いが、本日の登山はキャンセルとさせていただいた。


連れの方も「一人ででも大日に登ってやる!」ということではないようで、本日一日、室堂での観光に終始することになった。
そんなわけで、登山情報はほぼありません。

が、登山でしか行かない場所で観光をすると、山にまつわる様々な話を仕入れることができるので興味が尽きない。
しかも、ここは立山。伝説や伝承の類には事欠かない山域だけに、結果としては得るものが大きかった。


とりあえず、あんまり遅くまでゴロゴロしていても逆にしんどいので、7時半ごろテントを這い出して、室堂方面に行くことにする。
天気はまあまあ。昨日ほどではないけれど、登山日和ではある。
が、登山に出かけないことにした僕はすっかりやる気が無いので、クロックスのサボサンダルで出発した。室堂散策程度なら、こちらのほうがよほど歩きやすい。

雷鳥荘の前にたどり着く頃には、立山方面にはかなりの雲が出ていた。

テントは引き続き多め。

大日方面も雲が多め。

みくりが池のほとりを、温泉の対岸側に回りこむ。
そのまま立山室堂山荘に向かう。
ここを歩くのは初めてなので、今まで見たのとはちょっと違う角度からの景色が楽しめる。

立山室堂山荘には古い建物が残されており、重要文化財に指定されている。

その建物の中が一部公開されて、中には立山の歴史を語る物品が解説と共に展示されており、小さな博物館のよう。(撮影禁止のため、写真は無し。)

その流れで、立山室堂山荘の受付で販売されている冊子(1部500円)を購入してみた。
内容を一切確認せずに買ったのだが、目次を見ただけでもアナーキズムに溢れていて、ニヤニヤが止まらなくなるような内容テンコ盛りのようだ。

冊子の内容も気になるところだが、それは後に取っておいて、玉殿岩屋を見てみることにした。
玉殿岩屋へは、立山室堂山荘の前の広場から道が続いている。

玉殿岩屋とは、立山開山のきっかけとなった阿弥陀如来のお告げが下された場所であるとされている。
最初はこんな、緩やかなゴロゴロ道。

まだまだこのあたりには花が残っている。

ミヤマキンバイ。

ミヤマアキノキリンソウ。

ヨツバシオガマ。

オニアザミ。

ミヤマリンドウ。

まさかこんなに残っているとは思わなかったので、ちょっと幸せ。

さて、玉殿岩屋へは、立山室堂山荘から大幅に下る。
さらにどんどん下る。

ノイチゴも生ってた。
食べたらバチが当たりそうなので、食べない。

途中、殺人事件の凶器のような石が転がっていてハッとする。
証拠品が遺棄されたのかと思うような生々しさだ。

さて、肝心の玉殿岩屋だが、ぐんぐん降りて、もしかしたら谷底まで行かなきゃならんのか?と不安になったころに、やっと現れた。

奥にももうひとつ。

岩屋の上はすさまじい節理の岩壁で、鬼おろしが作れそう。
同じ節理でも、柱状節理は大好きなのだが、こういうイボイボザラザラみたいなヤツは生理的に苦手である。

下を見ると、谷底までもう少し。

玉殿岩屋を見学して、概ね満足して室堂ターミナルへ向かう。
あたりはすっかり草紅葉。
昨日は腹痛後のダメージで風景が一切目に入ってこなかったが、たいへん綺麗だ。

そんな草紅葉の中でも、まだ咲き残っている花がチラホラ見られた。

ヤマハハコ。

カンチコウゾリナ。

室堂ターミナルで何をするかといえば、スイーツである。
奥は、連れが食べたシフォンケーキ。
手前が、僕が食べたフレンチトースト。

このフレンチトースト、いままで僕が食べてきたフレンチトーストは何だったんだという美味さ。まるで焼プリンのよう。フレンチトーストってこんなに美味かったのか。
このフレンチトーストを食べながら、立山室堂山荘で買った冊子を読む。至福。

このあと雷鳥荘の温泉につかって、休憩室でビールを飲んでいたのだが、そこにあった図書の一冊で『立山と黒部の昔ばなし』という児童書(漢字に全部ルビが振ってあったので、たぶんそうだろう)に書いてあったことと総合すると、立山の開山のいわれはこんな感じ。↓

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大宝年間というから飛鳥時代のこと、佐伯有頼という貴族の少年(そのとき既に16歳だったというから、当時の感覚からすればすでに一人前の大人である)が、父の飼っていた白いタカを持ち出して狩りに出かけたところ、タカに逃げられてしまった。
ヤバいと思った有頼少年、必死に探してやっとタカが自分のもとに戻ってこようとした刹那、ツキノワグマが現れてタカを威かしたため、タカがまた逃げてしまった。
それに怒った有頼少年、クマをめがけて矢を放つと、見事その矢はクマの月の輪に深々と刺さった。
クマはたまらず逃げるも、有頼少年は追いかける。
クマが洞窟に逃げ込んだのを見定め、その洞窟に向かうと、逃げた白いタカもクマを追うように洞窟に入っていった。
有頼少年が洞窟に入ってみると、そこに居たのはクマとタカではなく、阿弥陀如来と不動明王であった。何かの間違いではないかとよく見ると、阿弥陀如来の胸には、たしかに有頼が放った矢が深々と突き刺さっていた。
ああ、なんということをしてしまったのか!と有頼は悔い、己の腹を切ろうとしたところ、阿弥陀如来がそれを止めて言うには、
「この山を開き、信仰の地として衆生を救わせるために、オマエを誘き寄せたのだ。」
とのこと。
有頼少年はその場で頭を丸め、立山を開山するに至った。
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ここまでは、どこのお寺にもありそうな縁起なのだが、立山を取り囲む道具立てがこんな無難な線に収まるはずが無い。
実は、有頼には許婚がいたのだ。
その許婚、有頼に対する思いを断ち切れず、尼僧(乳母だという説もある)と侍女(かむろ頭だったというから、年端のいかぬ少女であったろう)と3人で、当時女人禁制であった立山に有頼に会うために入山したというのだ。
そのストーリーに連なる名所が、現在にも語り継がれている。(というか、一部は実際に目にすることができる。)

まず、立山ケーブルの車中からも見ることができる、柱状節理の石柱がゴロゴロしている「材木石」。
これは、許婚である姫、尼僧、侍女が入山するに当たって、お堂を建てるために用意されていた材木を跨いだがために、仏罰だか神罰だかで石に変わってしまったものなのだという。

次に、許婚が疲れて歩けなくなってしまい、へたり込んでそのまま杉になってしまったという「美女杉」。
杉に姿を変えられつつ、涙ながらに己の思いを尼僧に伝え、形見として有頼に渡してくれるよう手鏡を一枚渡したのだそうな。
この美女杉は、立山ケーブルの美女平駅のすぐ脇に立つあの美女杉である。

次は、侍女が歩けなくなり、これもまた杉になってしまう。
侍女はかむろ姿だったので「かむろ杉」。

さらには、ついに尼僧も動けなくなり、尼僧は石になってしまう。これが姥石。
この姥石、最近になって再発見されたというニュースが報じられた。(こちらの記事参照)
尼僧は、石に変わりつつある中で、
「姫の思いよ、届け!」
とばかりに形見の手鏡を有頼の在所めがけて投げた。
が、残念ながら届くわけもなく、途中で落ちた鏡はこれもまた石になったと。それが鏡石と呼ばれ、今の鏡石平あたりにあったとされている。


とまあ、昔の人はよくもまあこんな話を思いついたものだと。(全体的に中世の説話っぽいので、おそらくは後世に盛られたものなのであろう。)
上記のほかにも、泥棒を働いた者が杉に変えられたとか、とりあえず、立山あたりの仏罰や神罰は石か杉に姿を変えられるというものらしい。

もちろん、このあたりの伝説伝承というのは、後世にいろいろ盛られた部分もあるだろうし、尼僧なんかも飛鳥時代という時代考証からすれば矛盾があるように感じるわけだ。きっといろいろな伝わり方をするうちにバリエーションが生じたのだろう。

こういう話をちゃんと収集して、同じ話の異なる部分などを比較検証しながら、物語の原型を探っていくってのが民俗学や史学の醍醐味なのだろうけれど、誰かそのへん整理してくれないかなぁ。
とりあえず、現在のところ、簡単に手に入る資料はこれだけの模様。
こういうテーマを見つけるにつけ、42歳でアーリーリタイアを夢見ていたあの頃の計画通りに事が進んでいればなぁと、繰言が脳裏をよぎる。まさに繰言だ。

閑話休題。

テントに戻ってなんとなくダラダラしているうちに夕方になる。
夕飯は、奥大日の山頂で食べるはずだったラーメン。
大日、行きたかったなぁ。

なんて言ってる間に、すさまじいばかりの夕焼け。

このままこの夕焼けに溶け込んで、この風景に一体化してしまいたい。
下界に未練があるわけでもないので、ここで立山の風景に一体となれるなら本望である。

そうこうするうちに、月が上がった。

明日はもう立山を去らねばならない。
深いタメ息が出る。嗚呼。。。


(「4日目&総括」につづく)



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